裕子ちゃんが13日にインドネシアに戻るので、三茶でお茶。
彼女はバリ島で洋服屋さんを経営しているのだが、お父さんの介護を助けるために、去年の秋からは日本にいる時間のほうが長い。
今回も2ヶ月で帰って来るそうだが、なかなかゆっくり会えなくて、いつも時間を縫うようにして会ってはしゃべる。
裕子ちゃんはかつて、渋谷道玄坂の百軒店の中の、風呂なし共同トイレのアパートに猫と住んでいた。
猫を飼っていたのではなくて、『猫と居た』、あるいは『部屋に猫が居た』という言い方のほうが近い。
彼女がその部屋に屋移りした晩に、少し開けておいた木枠のサッシ窓から、小さい三毛猫が入ってきた。
慣れた足取りで部屋を横切り、初対面の裕子ちゃんのことを警戒する素振りもなく、当たり前の顔をして部屋の中で寝てしまった。
朝になると猫は起きてどこかへ出かけていき、夕方になると窓から帰ってきて部屋の中で眠り、夜中にまたどこかへ出かけて行って、明け方に帰ってきた。
裕子ちゃんはキャットフードを買ってきて、三毛猫ちゃんに出してみたら、当たり前の顔をして食べたという。
三毛猫ちゃんは、食べたら寝て、寝て起きたらどこかへ出かけていって、帰ってきたらご飯を食べて、寝る。
裕子ちゃんが百軒店に借りたアパートは猫つきの部屋だったわけで、というか元々猫が住み着いていた部屋を裕子ちゃんが借りたというわけで、そうして彼女と三毛猫ちゃんの共同生活が始まった。
三毛猫ちゃんは小さい猫だったので、チビちゃんと呼ばれるようになった。
チビちゃんが出入りするから、部屋の窓は、冬でもいつも少し開いている。
当時の裕子ちゃんはスタイリストで、ある日の晩、部屋で、翌日の仕事に使う衣装に装飾をつけていたそうだ。
お腹がすいたが、食事や買い物に行く時間はない。
で、傍らで寝ていたチビちゃんに、「チビ、お腹がすいたね。」と話しかけた。
チビちゃんは、薄目を開けて、それから伸びをして立ち上がって、部屋の窓から出て行った。
30分ほどで口に何かをくわえて帰ってきて、裕子ちゃんの目の前に、口に咥えてきたモノをぽとんと落とした。
拾って見てみると、紙ナプキンにはさまれた、明らかに誰かが食べ残した、冷えて固まったピザの1辺だったそうだ。
「お腹がすいた」といったあとに、チビちゃんがピザをくわえてきたという偶然に驚きながらも、彼女はチビちゃんに丁寧にお礼を言って、ピザを食べたふりをしてこっそり捨てたという。
そのからしばらく後、裕子ちゃんが彼氏とベッドでゴロゴロしながら、「お腹すいたね」「チキンが食べたい」という会話をしていたらしい。
するとチビちゃんは部屋から出て行き、30分ほどたって帰ってきて、裕子ちゃんと彼氏の前に、口にくわえてきたものをぽとんと落とした。
それはフライドチキンの骨で、わずかに肉片が残っていたという。
裕子ちゃんはその部屋に3年くらい住んでいたが、その間、チビちゃんが何かをくわえて帰ってきたことも、食べ物を持ってきたことも、その2回だけだった。
ピザのときには偶然だと思っていた裕子ちゃんも、2回目のチキンのときには、チビちゃんは言葉を理解していると思ったそうだ。
チビちゃんは言葉を理解して、チキンという単語が何かを知っていて、お腹がすいている裕子ちゃんに何かを食べさせてあげたいという母親のような気持ちまであったらしい。
「手のかかるニンゲンだわ」と思って、裕子ちゃんの世話をしていたのかもしれない。
チビちゃんには私も何度も会ったことがあるが、本当に小さくて、賢そうな整った顔立ちで、めったに声を出さない、大人しい猫さんだった。
裕子ちゃんはアパートから引越しをするときに、チビちゃんを連れて行くつもりだった。
しかし、引越しの1週間ほど前に準備を始めたあたりから、チビちゃんは部屋に帰ってこなくなった。
1日帰ってこないくらいなら何回かあったらしいが、1週間も帰ってこないということは、それまで1回もなかったことだった。
チビちゃんが出入りしていた窓の外は、建物と建物の間の隙間しかなく、ニンゲンが通れる場所ではない。
それでも随分と捜したらしいが、それきり、チビちゃんは帰ってこなかった。
その後チビちゃんは、裕子ちゃんの次の住人と、当たり前の顔でまた共同生活をしたのかもしれない。
次の人も、チビちゃんと仲良くできるニンゲンだったらいいのだけれど。
そして裕子ちゃんが屋移りしてから何年も経たずに、そのアパートは取り壊された。
チビちゃんはどうしているかな。
今でもときどき考える。
随分と昔の話なので、猫さんの一般的な寿命を考えると、もうすでに楽しいことばかりの世界に移り住んでいるはずだけれど。
今もどこかの、ごちゃごちゃとした路地の中の古いアパートの1室で、誰かと共同生活をしているような気がしてならない。
小さくて身軽な身体で、いつも少し開いている窓から出入りして、ルームメイトに時おり食料を運んでいるのかもしれない。
あちこちで猫つき・犬つきの部屋に泊まったが、その中から2点。
タイのパンガン島のバンガロー。
くりくりの膝の上で寝てしまったので、くりくりは硬い椅子に変な格好で座ったまま動けず。
当たり前の顔で部屋のベッドでもグースカ。
この猫さんは他の部屋も渡り歩いて、万遍なく愛想を振りまいていた。
バハマのビミニ島。
ヘミングウェイがいつも泊まっていたらしい部屋なのだが、中に入ったらベッドの上に、いきなり猫。
客(ワシだ!)が寝るときにも、まったくどかない。